「マイケル・キング」がいつ頃
「マーティン・ルーサー・キング」
と呼ばれるようになったかであるが、
実はキング牧師も生まれた時、父と同じマイケルという名前がつけられた。
しかし1934年に一家でドイツを訪れた際、
父は宗教改革を行ったマルティン・ルター(Martin Luther)の偉業に触れ、
尊敬するあまり、法的な手段をとって、
息子共々「マイケル・キング」から
「マーティン・ルーサー・キング」という名前にかえてしまったのだ。
恵まれた環境の中で育ったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは
家庭では「M.L」と呼ばれ、姉や弟と共に父親から厳しくしつけられた。
父親は子どもに容赦なく体罰を与えたが、母親は優しく寛容で愛情深かった。
子ども達は毎日聖書の言葉を暗記させられ、
朝と夕に家族揃って自宅のそばにある教会で
祈りを捧げるといった規則正しい生活の中で成長していく。
姉のクリスティンは父親の言いつけに対し従順、弟のA.Dは反抗的、
M.Lはその中間で、従うふりをして約束を守らないことがしばしばあった。
M.Lは他の子と比べて身体が小さかったが負けん気は人一倍強かった。
近所の友達と自転車、凧揚げ、ローラースケートや野球などをして遊んだりもしたが
非常に頭が良く、5歳にして聖書の長い言葉を覚えることができたという。
幼いうちから本に興味を示し、
字が読めないのに本に囲まれているのが好きだった。
早く学校に行きたくて年齢を偽り、姉と一緒に小学校に入学したが、
程なく嘘がばれて退学になり、翌年再入学する。
小学校時代は成績優秀で教会の行事にも意欲的に参加し、
心身を鍛えるために8歳の時から新聞配達の仕事まで始めた。
6歳の時、M.Lにとって生涯忘れられない出来事が起きる。
それは初めて受けた人種差別だった。
当時、南部では人種隔離が徹底されていた為、
黒人たちは自らのコミュニティ内で生活することが多く
白人と接することは滅多になかったが、
M.Lには仲のいい白人の友達がいた。
ところが小学校にあがった途端、その子の母親から
「もううちの子とは遊ばないでほしい」と告げられたのだ。
それを聞いたM.Lはショックを受け、家に帰るなり両親にその理由を尋ねた。
そこで初めて両親はM.Lに奴隷制度や人種問題について話し、
白人と黒人の子どもは同じ学校にすら通うことができないと明かしたのだ。
M.Lはこの時受けた心の傷を以下のように語っている。
「このことがどんなに大きな衝撃であったか、私は決して忘れることができない。
私は即座に両親にこのようなことを言われた背後の動機について質問した。
私たちは食卓に座ってそのことを話し合った。
そしてここで初めて私は、人種問題の存在に目ざめたのだ。
それまではそのことを意識したことはなかった。」
M.Lは大きくなるにつれ、
黒人は至るところで白人から差別を受けていることを知った。
尊敬する父親が街で白人の店員から不当な扱いを受けたり、
警官から「ボーイ/boy」(ここでは"召使い"という意味で、黒人に対する差別用語)
と呼ばれるのを見て心を痛める。
そのうち白人を憎むようになったが、
両親から「たとえ差別されても白人を憎んではいけない。
それがキリストの教えである」と度々諭された。
だが、高校2年の時、
M.Lは黒人であるがゆえに今までにない屈辱を経験することになる。
それはアトランタから150kmも離れたダブリンで行われた弁論大会に出場し、
見事賞を獲得して意気揚揚と帰りのバスに乗りこんだ時に起こった。
M.Lと引率の先生は既に後部に設けられた黒人席に座っていたが、
発車直前に乗ってきた白人客に席がないことに気が付いた運転手が
M.L達のところまでやってきて、
白人に席を譲るよう汚い言葉を使って命令してきたのだ。
M.Lは腹を立ててそのまま居座ろうとしたが、先生が法律に従うよう促した為、
仕方なく席を立ちM.Lは怒りに身悶えながら帰路に着いた。
大学時代、汽車の中でも同じような差別を受ける。
コネチカット州のタバコ農園で長期のアルバイトをして帰りの汽車に乗り、
南部のバージニア州にさしかかった時、
M.Lは食堂車に移動し空いている席に着いた。
するとウェイターが駆け寄って来て、彼を一番後ろの席に案内し
その上、M.Lが白人席から見えないよう、カーテンをおろしたのである。
視界を遮られ、侮辱に耐えながら食事をとらなければいけない
M.Lの心中はいかばかりだったか。想像するにあまりある。
幼少時代のM.Lは一見まじめでおとなしそうだったが、激情を内に秘めていた。
それを示すこんなエピソードがある。
M.Lが12歳の時、父から家で宿題をするよう言われたのだが
どうしても母の日のイベントであるパレードが見たくて
こっそり部屋を抜け出して街に出かけた。
その間に、M.Lが敬愛していた祖母が心臓発作で急死してしまったのだ。
帰宅してそれを知るやいなや、
祖母の死は自分に対する神からの罰だと思いこみ、
ショックのあまり気が動転して2階から飛び降りてしまう。
幸い怪我をせずに済んだが、それから数日間泣き続けて夜も眠れなくなり、
両親は傷心の息子をなぐさめるのにとても苦労した。
父親はM.Lに、
神は宿題をせず出かけたおまえの事をそんなに怒っていないということ、
近しい人の死はこれからいくたびも我々の元に訪れるが、
たとえそれが人生の一部であったとしても
決してそれに慣れ親しむことができないこと、
そして神には独自の計画があって、いつ召されるかは神のみぞ知るということを
懇々と彼に諭したのだった。
M.Lは公立の小学校を卒業するとアトランタ大学附属の実験学校で学び、
1942年からブッカ・T・ワシントン高校に進んだ。
そこでは第9年次をスキップして入学し、第12年次も飛び級して卒業する。
そして15歳で中産階級出身の子弟が通う黒人男子大学、モアハウス大学に入学し、
自宅からおよそ2kmの距離にある大学まで毎日バスで通学した。
大学に入った当初、父の願いとは裏腹に、
M.Lは説教師や牧師よりも医者や弁護士になりたいと考えていた。
もちろんM.Lは、南部における教会が白人から抑圧されている黒人にとって
大切な心の拠り所になっている事を知っていた。
しかし、父が教会で歌うように説教し信者達が恍惚となって身体をゆする姿を見て
自分はなじめないと思っていたし、
多くの牧師達が現世よりも
来世に重点を置いて説教をしていたことに疑問を持っていた為
どうしても父と同じ道を歩むことに抵抗があったのだ。
そしてある日、牧師になる気持ちはないと両親の前で断言し、父を落胆させた。
しかし、学長のベンジャミン・メイズの講義を聞いた事でM.Lの考えは変わる。
彼は教会をキリストの教えを授ける場所だと限定するのではなく、
もっと社会を変革するための場として活用すべきだと説いたのだ。
説教のスタイルも信者の知性に訴えるように行えば、
人々の関心をより社会に向けることができ、
向上心を養うことができるのではないかと提案したのである。
またある上級生が「黒人は来世で幸せになることを夢見て、
現世での苦しみを忘れようとしているが、それは間違っている。
この世で悪と戦うべきだ」とM.Lに話し、その言葉に彼は強く動かされたという。
南部において、教会牧師が説教壇で発する言葉の影響力は絶大で、
信者の心にまっすぐ入っていく。
だとすれば、黒人にとってよりよい社会を作るための拠点として
教会をもっと活用すべきだと悟ったM.Lは、
17歳の時、ついに牧師になることを決意した。
その事を両親に告げると父は嬉しさを抑えながらこう言った。
「それが真実ならばみんなの前で説教をしてみなさい。
うまくできたらその決心は本物であると認めよう」
M.Lが行った説教は大成功を収め、説教師の資格が与えられた。
そして翌年エベネザー教会の牧師の助手になり、
それを機に「M.L」から「マーティン」と呼ばれるようになった。
19歳の時、社会学で学士の資格を取得してモアハウス大学を卒業し、
生涯の天職として牧師になることに決めたマーティンは
1948年9月、神学の学位を取得するため、
ペンシルヴァニア州にあるクローザー神学校に入学する。
そこは生徒数が百人にも満たない小さな神学校だったが、
マーティンはそこで勉学に没頭し劇的な変化を遂げるようになる。
白人女性と本気で恋愛し
初めて結婚を考えるようになったのもクローザー時代だった。
<09・2・20>